展覧会
深井 今井 深井 今井 ― 四人の琳派 ‐花鳥風月‐
2019年7月27日(土) ~ 8月10日(土)
11:00~19:00(最終日は17:00まで)
会期中無休
【ごあいさつ】
この度、アトリエヒロでは、「深井 今井 深井 今井 - 四人の琳派 - 花 鳥 風 月 -」を開催させていただきます。
彫刻・陶芸と異なる分野で活躍されている四人の先生方に、琳派・花鳥風月をテーマに掲げ、深井隆先生・風、今井眞正先生・花、深井聡一郎先生・月、今井完眞先生・鳥と個別の題材に取り組んで頂きました。
ご高覧賜りますよう、ご案内申し上げます。
アトリエヒロ
花
今井 眞正
MAKIMASA IMAI
1961年 京都生まれ
1988年 東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了
2002年 京都市芸術新人賞受賞
現 在 京都工芸美術作家協会副理事長、広島市立大学芸術学部非常勤講師、
京都陶磁器協会評議員、京都陶磁器研究会運営委員、
京都花鳥館評議員、工芸京都同人
【主な展覧会】
2015年 個展「‐土の彩‐ 陶・今井眞正展」(髙島屋・東京日本橋/大阪)
琳派400年記念展(京都文化博物館ほか)2016年 伝承と創造 陶藝家今井政之三代展(あべのハルカス近鉄本店・大阪)
個展「‐耀く刻‐ 今井眞正展」(福屋八丁堀本店・広島)2017年 第7回国際伝統芸術招待展(上海芸術礼品博物館)
個展「‐華やぐ貌‐ 陶・今井眞正展」(髙島屋・京都/横浜)
個展「今井眞正陶展」(東五六・京都)
【パブリックコレクション】
宮崎県門川町総合文化会館、東京都千代田区日本テレビ前、広島県竹原市バンブージョイハイランド、青蓮院門跡、広島県下蒲刈町モニュメント、たけはら美術館、竹原市、京都芸術センター、長野県中野市市街、JR山梨市駅前モニュメント、JR蒲田駅前モニュメント、東京競馬場、山口県立こころの医療センター、中国景徳鎮陶磁博物館、JR岩沼駅前広場モニュメント、竹原市町並み保存地区 他
鳥
今井 完眞
SADAMASA IMAI
1989年 京都市生まれ
2011年 京都花鳥館賞奨学金最優秀賞
2013年 東京藝術大学美術学部工芸科陶芸講座卒業
2015年 東京藝術大学大学院美術研究科陶芸専攻修了
【主な展覧会】
2014年 「藝術」、ですか?‐歴史・町・広島竹原芸術祭‐ 青煉瓦賞(審査員賞)
2015年 今井完眞 個展(銀座黒田陶苑)以後毎年
2016年 今井完眞 陶展‐海‐(日本橋三越本店アートスクエア)
2017年 -LIFE-今井完眞陶展(京都大丸美術画廊)
2018年 今井完眞 陶展‐1300℃の生命‐(日本橋三越本店アートスクエア)
2019年 ゾクッとするリアリズム ゾウムシVSシーラカンス(茨城県陶芸美術館)
風
深井 隆
TAKASHI FUKAI
1951年 群馬県高崎市生まれ
1978年 東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了
1985年 文部省在外研究員として英国・ロンドンに9ヶ月滞在(王立美術学院RCA)
1989年 第14回平櫛田中賞受賞
2005年~ 東京藝術大学美術学部彫刻科教授
2013年 紫綬褒章を受章
現 在 東京藝術大学名誉教授
【パブリックコレクション】
東京藝術大学大学美術館、群馬県立近代美術館、栃木県立美術館、旭川市彫刻美術館、井原市立田中美術館、板橋区立美術館、山口県立美術館、北海道立旭川美術館、富山県立近代美術館、高崎市美術館、相生森林美術館、サントリー美術館、高松市美術館、宇部市野外彫刻美術館、埼玉県立近代美術館、東京オペラシティアートギャラリー 他
【出版物】
『13月の青空アルバートストリート93番地』新潮社(1995)
『深井隆作品集‐羊の手‐クロニクル』(2009)
『東京藝術大学の彫刻と深井隆1951~(2018)~』東京藝術大学出版会(2018)/Dの3行目との共著
月
深井 聡一郎
SOUICHIROU FUKAI
1973年 東京都板橋区生まれ
1999年 武蔵野美術大学修士課程造形研究科(彫刻)修了
2000年 第8回日本現代陶彫展大賞、第5回アート公募モリスギャラリー賞
2002年 文化庁在外派遣研修員として英国ロンドンに滞在1年間
2011年~現在 東北芸術工科大学美術科工芸コース准教授、AGAIN-STメンバー
【主な個展】
1998年 ギャラリーなつか(同’00、’01、’06、’09)
2002年 ガレリアキマイラ
2004年 GALLERY GAN
2007年 INAXライブミュージアム
2010年 Art Center Ongoing 、新宿眼科画廊
【主なグループ展】
2003年 破壊しに‐(ガレリアキマイラ)
2005年 第1回出雲・玉造アートフェスティバル‐光の縁結び‐
2006年 colors & forms(KABEGIWA)
第9回岡本太郎記念現代芸術大賞(TARO賞)展(川崎市岡本太郎美術館)2007年 CHIBA ART FLASH ’07(稲毛市民ギャラリー)、壁ぎわ(KABEGIWA)
2008年 空想の花 畑~花と彫刻の美術展(ハウステンボス)
2010年 DOMANI明日展(国立新美術館)
2013年~ AGAIN-ST第1~8回展
【パブリックコレクション】
岐阜県土岐市、石川台プロジェクト、ザ ロイヤルパークホテル 京都三条
【出版物】
『AGAIN-ST BOOK』(2017)
琳派と聞けば誰もが、たとえば光琳の「紅白梅図屏風」なり「燕子花図屏風」なりのことを思い浮かべるとして、頭のなかに思い浮かぶそのイメージに付随しているのはどのような感覚だろう。繊細さ、と言ってしまえば月並みだが、その感覚を慎重に腑分けしてみると、その他の大和絵や狩野派などに比べてさえいっそうシャープな輪郭(じっさいに輪郭線を描くかどうかは別にして)や、純粋なデザインにまで達しかねないある種の表層性が、「琳派らしさ」を支えているように思える。山や月や川が大胆に抽象化されていても、じつは草木や虫や動物たちはおどろくほど細密かつリアルに描かれているのだが、それらリアルな生き物たちも、西洋芸術を取り入れたあとの我々が思うリアルとは何かが違う。
まるで対象がそこにあるかのような効果を追求した西洋絵画のイリュージョニズムは、遠近法はもちろんだが、油絵具の導入によって最終的に達成された。その本質は、まるで光を溜めこむことができるかのような肉厚さにある。しかし日本画、さらにはそのある意味での究極にある琳派(ジャポニズムの多くは琳派的なものに由来しているのではないか)の画面は徹底的に薄い(金箔!)。そしてそこに描かれたものがいくら具象的でも、和紙や顔料の素材感がかならず感じられる。奥行きを描かないことで、琳派はその表層性をさらに徹底させた。
ものの表面といっても、厳密に言えばそれはあくまでも二次元ではない。二次元は現実には存在しない。油画はそれを逆手に取るように堂々と厚みを手に入れたが、琳派の表面はまるで真の二次元が実現したかのように振る舞う。たとえ具象的であっても、どこかデザイン的なところが感じられるとしたら、それはこの表層性、別の言い方をすれば厚みの否定ゆえではないか。これを手に入れた制作物には、鑑賞者を拒絶するような高踏的(あえて言うと西洋近代芸術的)なところがない。世の東西を問わず後世の制作者たちは、琳派をはじめとするジャポニズムを取りこむことで親しみやすさを獲得し、それまでの西洋近代的芸術観を克服しようとした。それは制作物が平面か立体かを問わないのである。
(満留 伸一郎)
満留 伸一郎
Shinichiro MITSUDOME
1973年 鹿児島県生れ
2007年 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学(ドイツ文学専攻)
【出版物】
2019年 オリヴァー・プフォールマン『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』(共訳。アスパラ)「エーミール・マイアー 都市写真の萌芽と挫折」(『FOUR-D issue 5』FOUR-D)
2018年 「世紀末ウィーンとプレモダニズム アドルフ・ロース 1」(『symposium2018年12月号 / No.19』Dの3行目)
「輪郭と光――島尾伸三の写真」(『脈98号』脈発行所)2017年 「「恋愛」と「人類愛」の融合:ドイツとオーストリアの場合 ―シラー、ベートーヴェンからJ.シュトラウス、クリムトへ―」(『symposium2017年12月号 / No.17』Dの3行目)
2013~2015年 『映像』(旧『映像試論100』)に「ヴァイマール期ドイツ写真管見」を連載
カール・コリーノ『ムージル 伝記3』(共訳。法政大学出版会)2012年 カール・コリーノ『ムージル 伝記2』(共訳。法政大学出版会)
2010年 『検証 島尾敏雄の世界』(共著。勉誠出版)
2009年 「《離脱》の前後 ― 島尾敏雄《家の中》について」(『東京藝術大学音楽学部紀要』)
2008年 ヴォルフガング・ウルリヒ『芸術とむきあう方法』(翻訳)
2007年 「方法の生まれる国 ― カカーニエン、あるいは、ある〈全体性〉の強いられたストラテジー ― 」(『オーストリア文学』誌。2009年度オーストリア文学研究会賞)
2006年 ヴォルフガング・ウルリヒ『不鮮明の歴史』(翻訳)
2005年 「顔と形象 ― 全体性についての試論:ムージル『トンカ』を中心に ― 」(『詩・言語』誌)
俵屋宗達は、京都で絵屋を構えていたとされている。評判の扇絵師として知られていた宗達は他にも掛け軸・屛風・色紙等を豪商からの注文を受け制作していた。後半生は宮廷画家としての仕事も手掛けた。本阿弥光悦[1558-1637]との共同制作の作品が比較的多く残されており、生没年は不詳だが、光悦との関係等から十七世紀の前半が主な活動時期とされる。
尾形光琳[1658-1716]は京都の呉服屋・雁金屋に生まれた。光悦とは縁戚関係にあった。絵師の道に入ったのは三十代後半とされ、二条家や公家衆を庇護者としながら画業を展開した。五十歳前後の五年間を江戸に暮らし、大名家や豪商らの注文を受け制作。晩年は京都で作画を続けた。
酒井抱一[1761-1829]は姫路藩主・酒井忠恭の孫として江戸に生まれた。狂歌や俳諧、書画を嗜み、二十代の頃には浮世絵風美人画を描いている。狩野派、南蘋派、円山派などを広く研究し、一七九七年の出家後、本格的に画業に入ったとされる。一八一五年に光琳百年忌を催し、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行。雨華庵と名付けた根岸の庵居で制作を続けた。
「琳派」を代表する絵師として特に挙げられるのが宗達・光琳・抱一の三人である。「琳派」は狩野派や土佐派のように血脈や師弟関係にもとづく画派ではない。「私淑」によって継承されたとする画派である。活動時期に100年ばかりの隔たりがある宗達・光琳・抱一を、「琳派」の系譜として語ることができるのは、三者による『風神雷神図屛風』がのこされていることに因るところが大きい。宗達から学んだ光琳が『風神雷神図屛風』を描き、光琳から学んだ抱一が『風神雷神図屛風』を描いた。
「琳派」という名称の使用は一九一〇年代が最初とされ、定着するのは一九七〇年代とされている。すなわち、それまでの「俵屋流」「尾形流」「光悦派」「宗達・光琳派」などの名称が「琳派」へと統一されたのは五十年程前ということになる。美術史学における「琳派」概念の形成については詳細な研究が行われている。
近代において創始された日本美術史において「琳派」を意識的に位置づけた最初期の例は東京美術学校における岡倉天心の日本美術史講義であったとされる。東京美術学校という創作の現場において、「私淑」という幾分曖昧にも思える「琳派」の連なりを、天心は「光琳の一派」として講義した。天心がここで定義した「光琳の一派」という概念は、それが新しい作品を生み出すこと、すなわち創作において有効に機能するであろうことを想定したものであったろう。事実、現在も多くの作家が「琳派」に言及し、「琳派」は彼らの創作に影響を与え続けている。
「琳派」をかたちづくる「私淑」とは、宗達・光琳・抱一がそうであるように、作品そのものから見いだされる系譜である。宗達から受けとったものを踏まえ光琳が新たな作品を制作し、光琳から受け取ったものを踏まえ抱一が新たな作品を制作した。作品が生まれなければ「琳派」の系譜は途絶える。「琳派」が今も確かに在ると言うことができるのは、これまでの作家の仕事があり、それを受け取って新たな作品を生み出す作家がいるからに他ならない。
「琳派」から何を受けとるのか、それはそれぞれの作家に任されている。「琳派」とされる作家の作品が持つ造形上の特質は多様だし、現在の分類に従えば、絵画・陶芸・書・染織・彫刻など、「琳派」とされる作家たちの仕事は実に多彩だ。多様・多彩な作品群が「琳派」とされるのは、いわゆる技法や素材、様式等では語ることの困難な連関が、それらの仕事の間にあるからである。その連関とは、ものをつくるということに通底した創作の次元における連なりのようなもので、横山大観に「筆を持たない芸術家」と言わしめた天心は、その連なりを捉えて「光琳の一派」と語ったのかもしれない。
「琳派を四人で現代に翻案する」
過去から現在、未来へと至る「琳派」という飛躍を孕んだ広がりから何を受けとるのか。「琳派」を冠した本展において、四人の作家がひとつのこたえを提示する。
(Dの3行目)
参考文献
河野元昭『琳派 : 響きあう美』,思文閣出版,2015
『琳派 = Rinpa : 京を彩る : 琳派誕生四〇〇年記念特別展覧会』,京都国立博物館・日本経済新聞社(編),日本経済新聞社,2015
古田亮『新書518 俵屋宗達 (平凡社新書)』,平凡社,2010
玉蟲敏子『生きつづける光琳:イメージと言説をはこぶ《乗り物》とその軌跡』,吉川弘文館,2004
『日本美術史辞典』,石田尚豊・田辺三郎助・辻惟雄・中野政樹(監修),平凡社,1987
横山大観『大観自伝』,講談社,1981